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韓国から強制徴用で浅川地下壕へ

落合に住む姜壽煕さん
浅川小学校で6年生の授業

落合公園の前に住んでいます。
うちの一番上の孫は女の子で
2年前にこの学校を卒業させてもらいました。
その下の子は少し遅れていますが、
来年からまたこの学校にお世話になります。
よろしくお願いしますね。
きょうは先生からお願いがありまして、
おじいちゃんの若いときからのお話をすることになりました。
入れ歯になってしまって、
言葉が聞き取りにくいところがあるかもしれませんが、
了解していただきたいと思います。

わたしは、隣の国、今は、韓国といいます、
また、北は北朝鮮ともいいます、
そこから、昭和18年に、
日本の戦争を遂行するために
強制的に徴用で連れてこられた人間の一人なんです。

今から言いますと約52〜53年前のことで
だいぶ古い話になります。
私は、大正11年、
今の韓国の晋陽郡琴山面というところで生まれました。
いなかの山奥の農村で、
先祖代々が百姓をやっていました。
貧しい村で、字の書けない人が99%もいる文盲の村でした。
私は9歳の時から小学校に入れさせてもらって
一応6年間勉強しました。
学校を卒業してまもなく、
強制的に徴用されて連れてこられたわけです。
そのころうちの国は、日本の植民地であったわけです。
それがために、
日本が戦争を遂行するためということが名目でした。

誰に連れてこられたかという事ですが、
村の駐在署と学校と面(村)事務所の3つが
強制徴用をやっていました。
駐在署の署長さんと学校の校長先生は日本の方だった。
ふつうのおまわりさんとふつうの先生は朝鮮の人でした。
それで、昭和18年の3月10日に、
日本人の駐在署の署長さんと面の面長さんと言う人が来て、
「おまえ、日本のために行ってくれ」と、
無条件に着の身着のままで、
晋州という駅から汽車に乗せられて、
プサンに行って、
プサンから当時関釜連絡船というのがあって、
それに乗せられて8時間ぐらいかかって下関に着いて、
各駅停車の鈍行で、静岡県の焼津と言う駅で降ろされて、
工事現場に入りました。
日本坂作業所といっていたんですが、
東京から下関まで8時間でいく弾丸列車を通すという
名目の大きなトンネル工事の現場でした。

そこについて、飯場に入れられました。
三角屋根の建物で真ん中に通路があって、
その両側に畳が25枚ずつしいてあります。
そこに50人を入れるわけです。
畳1枚が一人分と言うことだったわけです。
トイレはその建物の中にあるんです。
板でしきってありましたけど、
同じ部屋の中だからくさいんです。
私がここに来ていちばんいやだったことは、
このトイレのにおいのことでした。
仕事は一応トンネルを掘ることでした。
削岩機で穴をあけて、
ダイナマイトをしかけて爆破させる、
そして、トロッコでくずした岩を運び出す
というやりかたでした。

日本坂トンネルの仕事が終わって、
昭和20年4月中旬頃にこちらに来ました。
こちらではみなさんごぞんじの地下壕を掘る工事でした。
私が来た時にはもう仕事はだいぶ進んでいました。
浅川中学校の後ろと真ん前で工事が進んでいました。
私たちは仕事はやらされましたが、
何の目的で何をつくるのかということは
いっさい知らされませんでした。
ただ、終戦になりましてから、
あそこは中島飛行機が使うためだった
ということを聞きました。
かいつまんでいうと
そんなことで私は日本にきたということになります。

いろいろのことがありましたが、
みなさんから質問してもらって、
それにお答えするということが
一番勉強になるだろうと思います。
そういう風に考えて一応お話を終わります。

Q カンさんは日本に来る前、朝鮮にいるときは、
苗字と名前はなんと呼ばれていたんですか。

A 私は、3つ使っているんです。
親からもらった名前は
姜 壽煕(カン スーヒ)といいまして、
これは漢字です。
日本は昭和20年代に入りまして
創氏改名といって
朝鮮人は日本の皇民なんだということで
押しつけられたのが、神野といいます。
この名をつくったのは
日本の国ではなく私の親ですが、
神様の神と野原の野で「神野」とつけたそうです。
今でも商売の屋号に使わせてもらっています。
それからもう一つ、
朝鮮が昭和20年8月15日、日本から解放されます。
独立したということでうちの国からもらった名前が、
これもカン スーヒというんですが、
これは漢字ではなくて、
日本でいうひらがな(*ハングル文字)でもらいました。

Q カンさんは日本語がうまいけど、練習したんですか。

A 9才の時から日本の学校……
と言っても朝鮮にあったんですが、
に、入れさせてもらって、6年間通いました。
だから、一応日本語も朝鮮語も しゃべれるんです。
卒業したのが、15.16才の時で、
それから強制徴用で日本に連れてこられるまで、
日本の人のお店で働かせてもらっていました。
それで日本語を話せるようになったのです。
朝鮮語はどうにか通訳ができるくらいに話せます。
終戦になりまして、
日本の国の言葉を使っているのですが、
日本語も下手、朝鮮語もへたというような状態です。

Q こっちに連れてこられたとき、
日本語しかしゃべっちゃいけないと言われたとき、
どんな気持ちでしたか。

A これは大変苦労しました。
みなさんのおじいちゃんなんかは
経験ないんじゃないかと思いますが、
日本の植民地下にあった時代は、
皇国臣民の誓い、教育勅語というのがありまして、
もう50年過ぎたから忘れちゃいましたけれど、
最初は、「朕おもうに」だったかな、
自分の名前の書けない人でもそういうのを覚えないと、
たいへんおこられたり、
配給をくれなかったり。
配給がもらえないと飯が食えないので
むりやりにでも覚えなければなりませんでした。
非常につらかったんじゃないかと思います。

Q カンさんは日本に連れてこられたのは、
何歳の時でしたか。

A 1922年生まれで、昭和18年でしたから、
20歳になったときだと思いま
す。

Q 何才から何才までの人が強制連行されましたか。

A 年令は制限ありません。
日本の国内では男性はほとんど戦地へ行ってますから、
労働を補強するために
朝鮮半島から連れてこられたわけです。
だから,年令は16.17才から50才くらいまでは
だいたい連れてこられたんじゃないかと……。

今みなさんご存知ないかもしれませんが、
朝鮮も二つに分かれちゃいまして、
南は韓国、北の方は朝鮮民主主義人民共和国というんですが、
そこに住まいを持つ人は
ほとんど今の中国の方面に
その頃満州と呼ばれていたところに連れて行かれました。
南の方は全部日本に、あるいは南方に連れて行かれました。
年令にかまわず
とにかく働けそうな男の人は
ひっぱってこられるというのが現状でした。
その人数は終戦の時200万人と言われています。
その頃の朝鮮の人口は3000万人くら いでした。

Q カンさんは何をやっているときに強制連行されたんですか。

A 学校を出てから、
釜山というところに働きに行っていたんです。
正月でくにに帰ってきました。
そしたら、よくきたというので、
3月でしたから
穀物を植える準備をしている畑に行ったとき、
村の駐在の署長さんと面事務所の面長さんが来て、
無条件に、
おまえ、ここから日本へ行って、
日本人として日本の皇民として働いてもらうんだ
ということで連れてこられました。

Q カンさんの親は、
カンさんが連れて行かれてどう思ったのですか。

A それはたいへんむずかしいことですが、
野原で強制的に乗せられて連れてこられて、
それっきり親子は今日まで一度も会っていません。
親が仮に 生きているとしても、
どういうふうに思っているかということは、
ちょっとおじいちゃんにもわかんない。
はっきり言って。
親の気持ちも分からないというのもへんなんですが、
とにかくわかりません。

Q 強制連行された人の中に、女の人はいたんですか。

A いませんでした。
なぜいなかったのか私にもよくわかりませんが、
今で言う「いあんふ」
小学生ではちょっと……売春婦というんですか、
兵隊さんをなぐさめるために
強制的に連れていかれたということを
戦争が終わってから知りました。
私のように、
働かされるために女の人が連れてこられたということは、
見たことも聞いたこともありません。

Q 焼津で働いていたとき、
一日何時間ぐらい働いていたのですか。

A 静岡の現場も24時間体制なのです。
3交代で 8時間という規則がありました
が、だいたい16 時間というのが当時の状況です。

質問にはありませんでしたが、
働いた分だけ報酬はもらえたかということですが、
ほかの人は知りませんが、
我々強制徴用として連れてこられた人は、
100%金はもらっていません。
会社と飯場頭が結束して
自分のぽっぽに入れたのかどうかは知りませんけれど、
私自身は1銭も、
工事現場からも、日本の国からも金はもらっていません。
じゃあ、その間おまえはどうして生きていたのか
という理屈になるわけですが、
飯場頭が米と雑穀はもらってきますから、
命はつなげます。

Q むりやり働かされて、
カンさんの仲間達が、
働けと言っている人たちに
文句を言ったことはありませんでしたか。

A 当時の状況としては
仮に私がおなかが痛くて
どうしても今日はつらいから休みたいと思っても
医者に連れてってもらえるかと思っても、
それは不可能なことでした。
顔色を見て
どうしてもこいつはだめだと見えるときは
かんべんしてもらえるかもしれませんが、
仮病をつかって休むなんてことは
とてもできることではありませんでした。

それに対して、
反抗して、あるいは文句を言ったり、あばれたりしたら、
もうまず自分の命がないもんだと
思わなけりゃなりませんでした。
そのいい例を言いますと、
静岡の飯場では夜は鍵をかけられていました。
それでも逃げていくのが現実でした。
逃げ出して行っても
麻袋みたいなものを着ているわけですから、
列車に乗ったらいっぺんにわかっちゃう。
そうすると、列車に乗っている警官がいて
連れてこられてしまうのです。
運が良ければ半殺しぐらいですむけれど、
運が悪ければあの世へ行く……。
実際に私があの世に行ったのを見たことがあるかというと、
見たことはありません。

Q カンさんが働いていたとき、
何人くらいの人に見張られていましたか。

A 静岡に強制的に連れてこられたときは、
夜になると錠前をかけられていました。
1mくらいの鉄筋を持って、
いまでいうヤクザですかね、
昔はなんて言ったか、知りませんが、
そういう人たちが4人が1組になって
一晩中ぐるぐるまわっていました。

Q こっちに来てから空襲にあったことはあったんですか。

A 浅川に来てからの話ですね。
終戦直前に八王子に大空襲がありましたね。
中央線のガードがありますね。
その先に花屋旅館というのがありまして、
その前に花屋の本館があったんですが、
その時焼けちゃいましたね。
その跡は、今は駐車場になっていますね。

それから、八王子駅にとまっている列車が
機銃掃射を受けたことがありました。
私は原の甲州街道を旧道に入ったあたりに
住んでいたんですが、
仕事から帰ってみたら、
からやっきょうが落ちていたので、
拾ったことがりました。
そんなことはありましたが、
直接自分がねらわれたことはありません。

Q その当時何を食べていたんですか。

A 当時の食料事情のことですね。
ここに来てからのことを申し上げます。
当時の配給量は基本的には一人一合でした。
大豆と米が主食で麦も少しはあったんですが、
ほとんど大豆でした。
大豆と言っても
みなさんはほとんど理解できないと思いますが、
牛とか馬などの家畜が食べる餌にしている、
大豆とかの油をしぼれるだけしぼったかすです。
豆腐を作ってかすがでますが、
今はずいぶんおいしく食べられるようですが、
当時のものは牛でも
あまり喜ばないようなひどいものでした。
それをお湯に溶かして
おかゆにして食べていました。

Q 当時、カンさんと同じ仕事をしていた人は
何人くらいいましたか。

A 静岡県に連れてこられたのが、うちの郡で100人、
それから市で100人、
その前の年に100人、
その外に日本全国から来たのか、
朝鮮から渡ってきたのか知りませんが、
最盛期には全部で5000人くらいいたんじゃないかと思います。
浅川では、昭和20年4月以降、
最盛期には3000人くらいいたんです。
中でもこの浅川小があるあたり、
ずうっとこの一帯バラックを建てたりして、
ここが一番多かったんです。
それから次に多かったのが原。
今の原島ガソリン屋の辺り一帯全部、
それから川の向こう。
その次は落合。
今でも落合には
ちょっとした形の飯場が残っています。
それから私が住んでいる落合公園の真ん前、
ここにも昔のままのバラックが
まだちょっと残っています。
もし時間があればそこにいって見れば
よくわかるんじゃないかと思います。
3000人の中には
八王子市内とか、
柚木にも住んでいた人がいたらしいです。
みんなこのトンネル掘りの関係です。

Q トンネルで働いていたとき、
仲のいい人がいましたか。

A 私は、静岡でもここでも、
トンネルの中では仕事をしていませんが、
当時の状況としては、
同じ職場にいても
仲良く話ができるという状態ではありません。
自分自身が一日一日どう生きるかということが
精いっぱいだったと思います。

Q カンさんは、どうくつを掘っているとき、
病気になりませんでしたか。

A 病気という病気はしたことがありません。
私は、外の仕事をやらせてもらっていたわけです。
静岡にいるときは、
すてばといいまして、
トンネルを掘った土を運んでいって捨てるという仕事を
やらせてもらったんですが、
こちらに来てからは、
浅中の真ん前にあった大倉土木の池田組の
倉庫番をやっていました。
だから、病気になるほどの仕事はやってないし、
また半年たらずでしたから、
病気はしたことがありません。

Q 工事現場で亡くなった人は、どこに葬られたのですか。

A 静岡でもここでも、
実際に私が見たのは一人もいません。
たまたま私の隣の村の人で、
一緒に連れてこられた人がいました。
その人が、見えなくなったので、
まわりの飯場の人に、
あの人はどうなったの、と聞いたら、
トロッコを押すとき、
高いところから落ちて死んじゃったよと言う話でした。
会社からちゃんとした話は何も聞かなかったです。
今、道路で犬や猫が死んでいるのを
見ることがありますが、
あの状態だといったら、まちがいないと思います。

Q カンさんはなぜ、日本に残ったんですか。

A これは私の個人的な事情があったからです。
終戦後の昭和20年の10月に、
高尾にいた約3000人の人はみな韓国へ帰りました。
私は結婚していました。
家内がちょっと体をこわしちゃいまして、
廿里にある産婦人科の先生で
松本先生という方にみてもらっていました。
入院までしたのですが、
明くる年の1月6日に亡くなりました。
子どもも育てることができなかったという個人的な理由で
結局国に帰れなかったということです。

Q 終戦後はどうやって暮らしていたんですか。
それに、お金がないのに、
食料をどうやって確保していたんですか。

A 戦争が終わるまで、
金は1銭ももらっていなかったので、
終戦後はどんなにして生きてきたかということですが、
これは非常に個人的な問題ですが、
当時、浅川小学校の前にたまたま倉庫がありまして、
トンネルを掘るときに使った
コンプレッサーのゴムのホースがあったんです。
そのホースが自転車のわっかにはめるのにちょうどよくて、
針金で止めると自転車のタイヤのかわりになったのです。
自転車のタイヤがなかった時代ですから、
終戦になって会社のえらい人はみんな逃げてしまって
だれもいませんから、
持ち主がいないといえばへんですけれど、
それを失敬していたのが売れたというわけです。
それをいくらか食費のたしにして、
お米と交換したりしたんです。
そんなことを半年か3か月くらいしているうちに、
日本の政府は職業安定所で
いわゆる「ニコヨン」、
これもみなさんご存知ないでしょうけれど、
仕事をもらって一日働いて
240円(ニコヨン)の金をもらって生活してきた
ということなんです。

Q カンさんは、今、韓国に帰りたいと思いますか。

A たいへん興味ある質問なんですが、
実は、おじさんの先祖はみな韓国なんです。
釜山から乗って 汽車で2時間くらいかな、
今はもっと速いかもしれませんが、
晋州というところにくにがあります。
親兄弟はもちろんみないるんじゃないかと、
親が仮にいたとしても、私はもう75才ですから、
とうに亡くなったかもしれません。
兄弟はいるかもしれません。
だけど、今は、音信不通なんです。
もう何回も手紙を出しました。
だけどその返事はありません。

私の先祖代々の墓は南の韓国にある。
私は日本にいる。
私の娘は北朝鮮にいる。
だから、私の個人的な立場は複雑なんです。
ただ、私は帰るとすれば
北朝鮮民主主義人民共和国に帰りたい。

日本も自由民主党があったり、
日本の政党は今10いくつもあるようですけれど、
うちの国も自分が生きているうちに統一をして、
それから、思想信条をこえて
日本のみなさんと仲良くしたいというのが
我々の信念であります。
(カンさんを迎えての授業から)

地下壕とわたし・浅川地下壕物語(7)

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