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平和教育学級と登戸研究所

1985年に川崎市が行政として
平和教育学級というのを開始しました。
そこに私も企画委員として加わりました。
見学会や登戸研究所の元所員へのアンケート調査に取り組む中で、
関コトさんというタイピストが保存していた
「雑書綴り」がみつかり、
ここからいろいろのことが分かってきました。

駒ヶ根市赤穂高校生の活動

やがて高校生たちが組織として関わってくることになります。
実は1989年に2つの高校の生徒たちが
偶然に同じ登戸研究所を追っていたのでした。
その一つは長野県の伊那谷に駒ヶ根市がありますが、
そこの赤穂高校の平和ゼミナールの生徒たちでした。
文化祭に出すものを調べ始めた彼等も最初は、
「登戸」が川崎の地名であることすら知らなかったのです。
でも、戦争中「登戸」に関わって
いろいろな人が集まってきていたことは
地元の人たちから聞いて知っていましたので、
一軒一軒聞いて回るうちに、
その時から地元に住み着いた人がいることを知ります。
そこでその方(杉山さん)のお宅を訪ねます。
ところが生徒たちに対して杉山さんは、
研究所のことはみんな忘れたといって、
全然つきあってくれなかったわけです。
そんな時、私だったら、
これはだめだな、言いたくないんだなと思って、
行かなくなるんだと思います。
ところがそれを高校生たちは
それがおもしろいと考えたみたいなんですね。
そんな重大な言いたくない秘密を知っているんだったら
自分たちの力で秘密を暴くまでねばってみよう
というふうに考えたんですね。
若いエネルギーがそういうものを探索するときに
私たち以上に大きな力を発揮するんだなと感心します。
それでどうなったかと言いますと、
その杉山さんはカボチャ作りが趣味で、
熱心にやっている方なんですね。
高校生たちは、
きょうはカボチャの話を聞きに来ましたとか、
手伝いますとか、いろんなことをやりだしたんです。
そうしたら、杉山さんは、
大人には絶対話したくないんだけれど、
君たち高校生だけには話しておきたいといって
重い口を開いてくれたわけです。
そして登戸研究所が
青酸ニトリールという大変な毒物を研究していたこととか、
いろんなことを語ってくれたわけです。
そして、その近くに当時そこには住んでいませんでしたが、
伴さんという人の家(別荘)もあって、
時々そこに来るということも分かりました。
杉山さんに紹介されて伴さんの家に行った高校生は、
そこでこんな物が大量に保管されているのを見つけました。
その一つがこれです。
これも、この高校生の活動がなければ
このように「発見」されずに終わってしまったかもしれません。
(1本の濾水筒を示しながら)
これはきれいなものですが当時のものです。
そしてまだ長野県の伴さんのお宅には
たくさん残されている物です。
これは何かというと、一人用の濾水機の濾過筒です。
アルミ箔に珪藻土を張った作りになっています。
珪藻土という細かい粒子を通して
圧力をかけた水をしみ出させるようにすると、
出てきた水はいかなる細菌も含まない
きれいな水になっているというしくみです。
これが大量に置かれていて、
伴さんは「これは石井式濾過器だよ」
と言ったというんです。

法政二高生の活動

法政二高との交流会の席でそれを聞いたのですが、
話に聞いていたあの石井式濾過器という
大変な物が目の前にあることに
信じられないような気持ちでした。
彼等もその時にはまだ重大な物だとは分かっていなかったわけです。
それで、法政二高の生徒たちがそれを預かって帰り、
鑑定してみようということになりました。
神奈川大学の常石敬一さんを私が知っていましたので、
お電話したところ、
常石さんもほんとかといってとんできました。
そして軍事機密と刻印されている文字など読んで、
「本物ですよ」ということになりました。
これは細菌のついている物ではありませんのでお回しします。
濾過筒を常石さんが本物だと確認したところ、
ニュースステーションが取材に入りまして
全国放送されました。
そして、これには2種類あって、
日本濾水機という会社と
松風という京都のメーカーとの二つが
生産に当たっていたことも分かりました。
石井四郎が掌握していた秘密の兵器であることが
はっきりしてきました。
ところが高校生たちは、
濾水機っていい物じゃないか、
地震などが起こったらとっても必要になる物だし、
なんでこれが兵器なんだと考えました。
そしてその疑問の解明が始まりました。
石井式濾過器と言われる兵器なら
戦後は絶対ないものだと私は思いこんでいました。
ところが高校生たちは平和のときにも使える物と考えましたので、
今でも作ってるところがあるんじゃないかという話になりました。
横浜市の井土ヶ谷というところに
日本濾水機という会社があったということを
当時の関係者から聞くことができました。
すると生徒たちはすぐに電話帳で調べ出しました。
そういう発想も私などにはなかなかできません。
歴史を教えていながら、
歴史の事実と今の暮らしとが
すぐに結びつかない頭の固さになってしまっているんですね。
電話帳で調べてみると、
日本濾水機という会社がすぐ見つかりました。
そうするともう「行ってみよう」ということになります。
そこで横浜の井土ヶ谷の日本濾水機という会社に行ってみましたら、
もう先代の社長さんは亡くなられて
若い社長さんだったのですが、
高校生の質問に大変びっくりされて、
石井式濾水機を調べに来たのは
進駐軍以来のことだよと言われていました。
やっぱり進駐軍は調べていたんですね。
戦後は平和目的の利用で、
地震地域の学校などには
プールの水を濾過するために
こういう装置が配備されていると思います。
ここから生徒たちは
戦争と平和とは裏表の関係にあるんじゃないか
ということも言い出すわけです。
そういうわけで、
細菌戦とか毒ガス戦とかについて、
なにげない日常生活の中から起こりうる物なんだ
という感覚を生徒たちから学んだような気持ちでした。
ですから、今回のようなテロが起こっても、
私は、ああ、やっぱりこんな風にして
テロが起こるんだというふうに実感しているわけです。

登戸研究所の組織と機能

さてこの辺で、登戸研究所とはどういうものであったのか
という本題に入っていきたいと思います。
まず登戸研究所という組織と機能が
日本陸軍の中にあっても
特異なものであったことに注目しなければなりません。
登戸研究所のそもそもは
1927年に陸軍科学研究所第二部に
「秘密機資材研究室」として発足したものと考えられます。
1937年に「登戸実験場」の名称でこの地にやってきました。
その後1941年には陸軍技術本部「第九技術研究所」となりますが、
その後の変遷の中で陸軍の法令等の文書の中からは抹消され、
「登戸研究所」の秘匿名で扱われていました。
はじめの頃は非常に強力な電波を発射して
敵兵を殺傷する兵器の開発に当たっていましたが、
秘密戦謀略戦の研究施設として本格的に活動していった1942年からは、
第3科を中心に大変な中国の経済戦争、
偽札を使う戦争に入っていきました。
そして1943年には人員が
1000名を越えるものに拡大されていきました。
ところで、電波兵器研究から
謀略や人体実験をする研究へと変わっていった経過を見ると
やはり日中戦争の行き詰まりが背景にあったことがわかります。
1937年に廬溝橋事件が起こり日中全面戦争になり、
戦況も泥沼化していきます。
その中で謀略戦が仕組まれていくわけです。
これは、あらゆるものを兵器にして
敵に打撃を与えようとするものです。
特殊な秘密戦のための人材の育成には
陸軍中野学校があたり、
そこで教育を受けた要員が特殊な任務を受けて
特務機関員として働いていきました。
普通の軍人は坊主頭ですが、
彼等は平服で長髪です。
中野学校の沿革をたどると、
1937年に陸軍参謀本部に第二部第八課が作られ、
そのもとに翌年後方勤務要員養成所が発足したことに始まります。
後方勤務などという名前で見ると、
後ろの方でなにかちょっと手助けしている人たちみたいに
思われますがとんでもない、
スパイとして最も危険なところまで入り込んでいく
特殊な作戦に当たる任務なんですね。
今、自衛隊が後方支援なら憲法違反には当たらないとか
議論されているようですが、
戦争に後方も前方もないのはこんな例からも明らかですね。
そういう特殊任務に就く人たちが必要とするものを用意する研究所・工場が
登戸研究所であったわけです。
登戸研究所の組織を見ると、
総務課を別として第一科から四科までありました。
概略を紹介すると、
第一科は、もともとは電波兵器の研究でしたが、
物理的なものすべてを扱いました。
例えば盗聴器だとか無線機などですが、
日米決戦の最後に研究開発したのが風船爆弾だったわけです。
第二科が生物化学兵器の研究です。
第三科が経済謀略という偽札など作る、
一番大変な縦軸の活動に当たりました。
登戸研究所は11万坪の敷地があるのですが、
その中にまた3mくらいの塀で囲って
周囲の目から隠れて仕事に当たっていました。
第四科は実際の製造に当たった工場です。


生物兵器

現在テロ問題で世界がゆれていますが、
登戸研究所の謀略防諜器材とその意味について
少し詳しく考えてみたいと思います。
第二科第二班は生物兵器、
動植物の毒物抽出とその兵器化ということで、
例えば毒球根などから兵器を作るというようなことです。
先ほど紹介した関さんが保存していた雑書綴りの中に
例えばコルヒチン原料入手のための伝票があります。
これを見るとジャワの植物園から
百合科ユリグルマの球根を半乾燥物にして
100キログラム取り寄せようとしていることがわかります。
これから毒物を抽出しようとしたわけですね。
イヌサフランなどというものも注文しています。
また、アマガサヘビというのがあります。
捕まえたら生きた血を抜いて送ってくれと言っている。
ハブでも大変な猛毒ですが、
このアマガサヘビというのは台湾より南方にいる蛇で、
俗称「十歩」と言われ、
かまれたら10歩で死ぬという猛毒の蛇だそうです。
こういったものを兵器として使おうとしたわけです。
ではどのように使うかといえば、
要人を暗殺するときの武器になるんです。
この班ではさらに「犬迷い剤」の開発も行われました。
それを与えると犬が吠えなくなる薬というもので、
スパイたちが活動するとき軍用犬に吠えられるのが一番困るので
何か良いものを開発してくれという要請で研究しましたが
大変苦労があったということです。
それはミミズから抽出したもので、
その薬剤を噴霧したり食べさせたりすると、
猫がマタタビを食べたみたいに、
敵の軍用犬もいい気持ちになって
まったく吠えなくなったそうです。
そのようなものを大量に作って戦場に送っていたわけです。

化学兵器

第二科第三班は、化学的な兵器です。
そこで作られた青酸ニトリールは
大変なものだったと考えられています。
要人を暗殺するときに、
毒物を飲ませてすぐばたりと死んだのでは
自分が犯人とすぐばれてしまいます。
この薬物は遅効性のもので
大変優れた効果を発揮すると認められ、
陸軍技術有功賞をもらうことになるわけです。
東条英機からの賞状、記念の楯
(記念館ができたときのためにといって預かっています)、
それに当時のお金で一万円の賞金をもらいました。
そのほかここでは、
傘だと思うと火炎瓶だったり、
ビールだと思うと爆発物だったり、
万年筆だと思うと注射器で人を殺せるとか、
鞄型カメラ、ライター型カメラなどなど、
スパイが必要とするものをすべて開発していきました。
こうしたものを開発するために
動物実験が必要になります。
そして、それがすむと動物でなく人間でやりたくなる。
戦争が人間を悪魔にするという象徴的なものだと思いますが、
登戸研究所の中にも人間の実験もできるような施設もあったのですが、
生きた人間で実験をやることは国内ではできないことでした。
しかし、人体実験のネットワークができていて、
これを石井部隊が管理していました。
東京の新宿に当時軍医学校があって
そのすぐ近くに防疫給水本部というのがありました。
そこに申請すれば
どこにいつ行けと指示が出ました。
登戸研究所では2回人体実験をしたことが資料で確認されています。
1回目は、1941年5月22日から南京1644部隊で行われました。
登戸研究所から7名が参加。
青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、
ハブ、硫酸アトロピンなどを用いて
この時だけで約30名の人体実験をしたということが
記録から確認されています。
そこに行った人たちは
なんとなく気持ち悪いことをしたなと思ったに違いないと思います。
43年にももう1回行くわけです。
その時には青酸ガスもやりました。
明治大学の中に動物慰霊碑というものがあります。
これは賞金としてもらったお金で作ったものです。
3mもの高さがあり、
後ろには登戸研究所の名と所長篠田中将の名前もあります。
こういうものがなぜ作られたかを考えてみました。
登戸研究所の中で動物実験をしている量など
たいしたことはないんです。
医学研究所などの方がモルモットなどたくさんやっています。
だから登戸研究所にこんな大きな動物慰霊碑はいらない。
人間を殺したことは言えないので
動物慰霊碑を建てて自分たちの気持ちを表したのではないかと
思わざるを得ないものと考えています。
これは今も残っています。
また、動物慰霊碑があるのなら必ず慰霊祭をやるわけですが、
この碑の場所が大変わかりにくい場所に建てられていて、
私たちが百数十名から聞き取りをしましたが、
そこに動物慰霊碑があったことを知ってた人は
ほとんどいませんでした。
知っていたのは二科のほんの一部の人だけでした。
そんなことから
人体実験に関わった人たちの心の内をいろいろ考えてみるわけです。

風船爆弾

風船爆弾というものについてお話ししたいと思います。
これは一科が兵器として開発したわけですが、
アメリカはこの風船爆弾に大変な脅威を感じていました。
今の炭疽菌どころの騒ぎではなかったのです。
それは記録から明らかです。
この兵器は登戸研究所が開発したものの中でも
大変科学的で恐るべきものでした。
最後の決戦兵器ということになります。
1943年に開発されたわけですが、
当時はもうほとんどお金もない物もない時代になっていました。
2億円で全部まかなってくれというこになりました。
2億円でゴムなど買う、
ゴム風船を上げるとなると大変です。
海軍はそれを最後までやっていたので失敗したのですが、
登戸研究所は、
以前に満州からソ連に向けて気球を飛ばしていたわけです。
そこでお金のかからない気球を作る方法として、
和紙をコンニャクで貼るという方法を見つけました。
和紙をうんと大きくして10mにする技術を
登戸研究所は開発しました。
これは当時の本物の和紙です。
和紙は水に弱いとみなさんどなたもお考えになるかと思いますが、
これをある糊で貼るとゴムよりも強くなることを開発したわけです。
それがコンニャク糊です。
食べ物であるコンニャクが兵器となりました。
市場からコンニャクを兵器として軍部は徴発しました。
そしてコンニャクを粉にして糊にしました。
これで4枚の和紙を重ねて貼ると
空気を通さない頑丈な風船ができあがるわけです。
直径10mの和紙の風船を水素ガスでふくらませます。
しかしあまり重い物は積めない。
15キログラムまでが限界です。
15キログラムという重さの中で効果的な兵器として
細菌爆弾が考えられたわけです。
ペスト菌、コレラ菌などあらゆるものが研究されました。
気象学者はジェット気流の流れを解析し、
11月から4月にかけて飛ばせば
アメリカに到達させることができることがわかります。
しかしアメリカに届くまでには二昼夜半かかるのです。
そうすると昼の気温と夜の気温は全然違うわけです。
夜温度が下がると風船は急激に下降してしまいます。
そこのところを時間と気圧の変化との関係を分析し、
気温が下がり気圧が一定以下に下がったら、
付けて置いた砂袋をばたばたと落として高度を保ち、
また次の日の夜がきたら砂袋を落とし、
そうして二昼夜半過ぎたところで
気球が時限装置で自爆すると全体が落下し、
地上に落ちたところで生物兵器などが活動する
という設計になっていました。
この中に炭疽菌もありました。
ペスト菌もありました。
菌が高空零下40度もの冷たさの中で死なないようにする
技術の開発も必要でした。
それは今では常識になっている乾燥凍結という方法です。
ところがこの風船爆弾計画が完成したのは
1944年の秋のことでした。
そこで参謀本部の会議がありました。
この作戦を実行した場合のアメリカの報復は
ものすごく激しくなるだろうということが議論になりました。
報復を恐れず実行するか、
細菌戦をやるぞやるぞと脅かしだけに使うことにするか、
検討されました。
その結果、9月のある会議で、
細菌兵器は搭載しないことが決定されました。
それで細菌兵器は開発したけれど
実際には使用しませんでした。
その代わりに15キロの爆弾をつけて飛ばすことにしました。
そして1944年の11月3日から1945年の4月29日まで、
明治節から天長節までの日を選んで飛ばし続けました。
その数、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来という基地から
約1万発打ち上げられました。
そしてアメリカでは、289個が発見されました。
アメリカはそれに対して太平洋上に飛行機を展開させて
ばたばたと打ち落とす作戦に出ました。
従って1000発位は届いたんじゃないかとみられています。
ですから兵器としてはかなりのものだったわけです。
アメリカはものすごくびっくりします。
死者はオレゴン州で教会の牧師さんの奥さんと子ども5人が散歩中に、
子どもたちがふれて、6名が亡くなる事故が起きていますが、
そのほかにもう一人の死者がでているのが実質的な被害でした。
こういうことをやったのが陸軍登戸研究所だったわけです。

証拠隠滅 経済謀略 人体実験

最後に3つ目の問題を考えてみたいと思います。
陸軍が秘匿したかった登戸研究所を
今になって調べることはどういう意味があるのかという問題です。
これも子どもたちと一緒に考え続けてきた大きなテーマです。
一つ目は、1945年の8月15日、
陸軍軍事課から「特殊研究処理要領」が出されます。
これによると、終戦に際し陸軍が証拠隠滅の第一にあげたのが
登戸研究所であったことが分かります。
二つ目は、第三科の偽札作りです。
とりわけ重大な機関としてここで作っていたもの、
これですが(実物を示しながら)、
当時中国で作られていた正式の紙幣です。
これを作ってばらまいたらどうだろうと、
参謀本部の命令が出されてきます。
こういう偽札を作ることは
戦時国際法にも禁止の条項などないのです。
そんなことは想定されてないわけです。
しかし、国内法ではどこの国でも
死刑に値する重罰規定を持っています。
偽札を作ることがまず異様な事ですが、
これを大量に作ろうとしました。
日本の傀儡政権として
汪兆銘政権が成立していましたが
それはたいした働きをしていませんでした。
お金も国民政府の発行していたものが流通していました。
日本軍は補給路が大変貧弱で、
軍隊で必要な物資は現地調達せよということになっていて、
しかも、日本円をたくさん出すわけでもなかったのです。
そういう中で、軍事物資を買い、
インフレーションを起こし、
経済を混乱させるには
偽札作戦がよかろうということになったわけです。
ここに持ってる紙幣は、偽札というより本物なんです。
偽札の本物、本物の偽札……。
話がややこしいですが、
どういう事かというと、
1941年12月8日に、
マレー半島コタバルと真珠湾に侵攻を開始し、
アジアの戦争が太平洋の戦争へと拡大していきました。
その時、ほとんど同時刻に香港占領作戦も開始されました。
香港を襲ったのは、
イギリスの重要な機関があったこともあるのですが、
もう一つ、中国の紙幣工場がそこにあったのです。
そこを日本陸軍は襲いました。
そこを占領したことはすぐ登戸研究所に知らされ、
第三科の要員が急遽現地に向かいます。
そして、接収した工場から中国紙幣の版とか
必要なものをみんな持ってきちゃうわけです。
1942年の春から作る中国紙幣は実は本物だったわけです。
大変なあくどいことをやったものです。
最後の中国の決戦と言われるインパール作戦に連動した
中国打通作戦と言われた作戦の戦費の大部分は
この偽札でまかなったと言われています。
総額およそ42億円分位になるわけですが、
そのうち30億円くらいに使用したようです。
これが登戸研究所の偽造紙幣と
それによる経済攪乱の実態です。
そのほかインドのチャンドラボースを引き寄せて
イギリスと戦っていくインド国民軍を作ろうとしましたが、
その時の紙幣・インドルピーも全部登戸で作りました。
またザンメル印刷機というのをドイツから買って、
これはとても優秀な性能をもっていましたので、
パスポートの偽造を行うとか、
このような印刷関連の任務はすべて第三科が行いました。
このように国家による許し難い犯罪を行っていた場所だったということも
私たちは知っておく必要があるだろうと思います。
それから三つ目ですが、
このような秘密戦とか謀略戦とかいうところでは、
平時では絶対考えられないようなことが行われます。
人体実験もその一つです。
捕虜に対して人体実験をすることは大変な犯罪になることです。
ところが日本軍はそれを平然とやったわけです。
それが731部隊であり登戸研究所であったわけです。

ではそれを行った科学者たちはどんな気持ちだったのか、
また、やった前後がどうかわるのか、
それを物語るのが昭和23年4月26日付け
帝銀毒殺事件の捜査手記です。
帝銀事件というのは、
帝国銀行椎名町支店で特殊な毒物が使われた強盗事件です。
「東京都の防疫研究所から来ました、
このあたりで伝染病が流行っています、
これを飲めば治ります」と言って、
行員に薬を飲ませた。
数分経って銀行員たちがばたばたと倒れて、
その間にお金を強奪したという事件です。
これは、すぐ死ななかったところにポイントがあります。
青酸カリだったら、ちょっとなめたらすぐ死んじゃうんです。
そしたら他の人は飲むことはない。
ところが幾人もの人が飲んで、
しばらくして死ぬのは異常な薬です。
当時の警視庁はこれは確実に遅効性の毒物である、
それを作っていたのは登戸研究所しかない。
登戸研究所と関連の深い七三一部隊とか
憲兵隊とか一〇〇部隊とかの関係者しか
これは使えないはずだということで調査に入るわけです。
特に登戸研究所を捜査しました。
そこで警視庁の捜査官がその年の4月に長野県に行って、
当時まだそこに住んでいた人たちから聞き取りをしました。
特にその中から伴さんの記録だけをきょうは抜いてきました。
記録には、
「青酸ニトリールは、青酸と有機物との合成に、
九研が特殊なものを加えて作った。
服用後胃の中に入ってから3分から7〜8分経つと
青酸が分離して人を殺す。
水を加えて浸透すれば乳白色となり、
味は、喉をやくような刺激はあるが臭味はない。
青酸ニトリールは液体で透明、
1回一人分2ccのアンプルに入っている。」
と書かれています。
これは非常に揮発性が強いもので
冷やしていないと製造できなかった。
さっきの関さんの雑書綴りから
大量の氷を登戸研究所は買い続けていたことが分かっていましたが、
ここで必要だったわけです。
それができたところで、
伴氏は他の6人と人体実験に行きます。
「昭和16年5月22日から人体実験をした。
南京病院。多摩部隊の本部になっている。
課長佐藤少佐の指導で実験を始めた。
初めは厭であったが」……ここまで
人間的な倫理を持っている科学者であることがわかりますね。
そこから恐るべき変身をとげていくわけです……
「慣れると一つの趣味になった。」
……なんで趣味になったのか
……「自分の薬の効果をためすために。」
……だから自分が悪魔になったことを知らずに、
ああこんなに効くのかと思って、
次第に科学者が悪魔の人間に変身していくことが分かりますね
……「相手は、支那の捕虜を使って、
相手が試験官を疑うので偽装して行った。
例えば紅茶の中に青酸カリを入れて飲ました場合……、」
「注射は万年筆様でキャップをとると針が出る。
その針で着物の上から刺すような仕組みとなっている。
主としてハブの毒を使う、一呼吸で倒れる。」
……このように冷静な悪魔が見ているんですね
……「死体はすぐに解剖をして研究の材料にした。」
こういうことが行われていたわけです。
学ぶべきもの
以上のことから私たちは
何をつかまなければいけないかということになるわけです。
レジュメのBに書いて置いたように、
秘密戦謀略戦では、平時では許されないことがおこなわれ、
普通の人間が悪魔に変わって平然としているということです。
登戸研究所を知ると、
「平時でも重要な物」が「武器」になることがわかります。
例えば石井式濾過機、
これは災害時などに役立つものですが、
これがなぜ兵器になるかというと
サバイバルという考え方です。
相手は殺す、自分だけは生き残るというときに、
それは兵器にすることができるわけです。
細菌をばらまきます。
相手は細菌でばたばた倒れる、
自分たちは細菌で汚れた水を濾過して飲んで生き延びる、
こういうことです。
石井部隊というのはそういう細菌戦を戦う部隊です。
ですから、あの石井式濾過器というのは、
通常の部隊に回っているものではありません。
通常の部隊に回るまで生産が追いつきませんでした。
細菌戦をやる部隊にだけこれが支給されていたわけです。

そして、科学が戦争に動員されるときの恐怖についてです。
上に述べたようなことに関わった人たちが
どうして戦争の終結によって断ち切られなかったのでしょうか。
ここに今日のテロにつながる大変大きな問題があるわけです。
七三一部隊にしても、登戸研究所にしても、
すべて資料はアメリカに提供することによって
戦犯から免除されたわけです。
登戸研究所の人道上の犯罪が世に明らかになっていれば、
そこでとぎれたはずです。
そうすれば今の炭疽菌騒ぎなど
起こらなかったかもしれません。
アメリカは戦争終結後日本に大調査団を送り込んできます。
それは日本軍が作った人道上許されない兵器を糾弾するためにではなく、
学ぶためにきたわけです。
日本の七三一部隊も登戸研究所も
情報をすぐには流しませんでした。
最終的に流すのが、1949年から50年にかけてです。
48年というのが一つの曲がり角になります。
帝銀事件の犯人とされた平沢貞道という
テンペラ画家が死刑判決を受けました。
これは、証拠はなんにもないんですよ。
今の刑法だったら絶対犯罪者にはなりません。
自白が証拠になった最後の事件なんです。
その自白もよく見るととてもあいまいなものです。
しかし結局死刑は執行されずに牢獄で亡くなりますが、
その平沢さんがあのような特殊な武器を手に入れるはずがないんです。
ところが七三一部隊とか登戸研究所とかが
なぜ免罪されていくのかというと、
占領下でアメリカ軍が七三一部隊とか登戸研究所とかに
関わっていることを知られたくない、
そこの資料を自分たちで独占したいために、
捜査をやめさせたということが非常に濃厚です。
そのための会議の記録などを今私は追っているんです。
それらを詳しく調べてみると、
先ほどお話した帝銀事件に関わる資料ですが、
伴氏は48年4月の捜査で、
青酸ニトリールを使ったに違いないと言ってるんですが、
ところが、翌年の裁判に出てきて、
「あれは青酸カリです」と平然と言っているんです。
うそをいってるんです。
ここで何か取引がなされただろうと
推測しないわけにはいきません。
そして、伴氏をはじめ多くの関係者が、
1949年から50年にかけて米軍の要員になっていきます。
伴氏は米軍の秘密作戦の支援をしました。
こういう形でそのような人たちが変身をとげていきます。
同じように七三一部隊を捜査していた米軍の研究者は、
七三一部隊から学ぶべきものは何かと言って、
炭疽菌とペスト菌の威力はすごいと言って
情報提供を求めていたという記録もあります。
これをみると1949年から50年にかけてのことです。
その情報をもとにアメリカが炭疽菌の培養を
本格的に始めるのが1950年代です。
今問題になっている炭疽菌が
どういう培養のものであるかを
アメリカはまだ明らかにしていません。
イラクの方でも炭疽菌の培養をしているとか
言っているようですが、
イラクのものかアメリカのものかなどは、
自分たちはしっかり確かめができているはずです。
たぶん私は、アメリカ自身が日本から持っていったものが
何らかの形で漏れているんじゃないかと推測しています。
悪魔の連鎖を断ち切るために
このように見てくると、
悪魔の兵器の体系はどこかではっきりさせないと
続いていくものだということがわかります。
ですから、今回の出来事について考えてみると、
テロに対しては報復戦争で解決するものではないと思われます。
やはり国際的な機関による管理によって
廃絶していかなければならないものだと思います。
七三一部隊や登戸研究所が
戦後アメリカの作戦として生かされたということが、
今日のテロにつながってきたことを
私たちはしっかり考える必要があると思います。
その意味で、登戸研究所を遺跡として残していくこと、
登戸研究所についてしっかり研究しておくことは、
大変価値のあることだと思います。
そしてこのような悪魔の兵器を、
人間の理性と国際的管理によって
一日も早くなくしていきたいものだと思います。

地下壕とわたし・浅川地下壕物語(11)

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