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講師 武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会 代表 川村善二郎氏

八王子に招かれて
武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会の代表と
ご紹介をいただきましたけれど、
私は今、十菱駿武さんや齋藤勉さんや、
今日もおいでになっている調布の上野勝也さんのように、
緻密な調査や保存の活動をされている方々から
教えていただいているところであります。
齋藤さんからこの総会でお話しするように依頼されましたが、
とても戦争遺跡保存の運動について
お話しするほどの資格が今のところ無いものですから、
躊躇しておりましたら、
私が今まで市民の歴史学習に関わってやってきたことを
お話しすればよろしいということでしたので、
それならばとお引き受けいたしました。
どんな話をしたらよろしいかと考えて、
私が公民館学習(公的社会教育)の講師として、
今までやってきたことのメモを並べてみて、
4ページ分のレジュメになりました。
これではとても話しきれませんので、
あちこちとつまみ食いして、
時間がきたらやめにしようかと、
そんなふうに考えております。

思い出の中の青木孝壽さん

はじめに、私は昨年2001年の6月に、
大学の同窓生である青木孝壽君を失いました。
青木君は松代の「大本営」地下壕の保存運動、
あるいは調査研究を進めてきた指導者の一人であります。
また皆さんの会の会長の十菱さんと一緒に
戦争遺跡保存全国ネットワークの代表を務めていた方であります。
その青木君が昨年6月に亡くなられて
大変ショックを受けました。
というのは、私は青木君と大学で一緒に勉強しまして、
彼は近世史が専攻で、私は近代史を専攻しておりました。
大学を卒業してから、
彼は長野県の部落差別問題の研究者として頭角を現わしました。
私も1960年代に入ってから
部落差別問題を自らの課題とするようになったので、
その面で青木君との交流がありました。
また私は1974年、昭和49年から10年間、
武蔵野市教育委員会が開設した
戦争と平和を考える夏季市民講座の講師を務め、
学習する市民有志と一緒に、
「中島飛行機」を中心に地域と市民の戦争体験の調査を始めました。
その調査はだんだん中島工場の疎開先の浅川に向かい、
さらに松代「大本営」地下壕に向かいました。
そこで青木君と松代の問題でも出会いました。
そんな縁があったので、
青木君が亡くなられたことには大変なショックを受け、
私が幹事を務めている東京部落問題研究会の会報に、
青木君を追悼する文を書きました。

武蔵野の記録する会

その追悼文を載せた会報が出たのは
昨年の9月下旬でありますが、
10月になりましたら、
吉祥寺にある法政一高の牛田守彦先生から
突然に電話をいただきました。
かっての中島飛行機武蔵製作所の工場の一部の建物が
NTTの武蔵野開発センターの施設として使われてきたけれど、
その建物が取り壊しになるというので、
浅川の会の十菱さんや齋藤さんにも加わっていただいて、
武蔵野市や開発センターに保存の申し入れを行なった。
それに伴う地下道の見学会があって、
その見学報告会を開くので出てきませんかというお誘いの電話でした。
私も武蔵野の夏季市民講座の中で
この地下道を見学したことがあったので、
それはおもしろいと思いました。
そして、亡くなった青木君から、
「僕はもうできないから、君が少しはやれよ」と
声を掛けられたような気がして、
それでこの見学報告会に参加いたしました。
その後シンポジウムも開かれ、
今年の1月に、武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会が結成され、
その幹事代表にまつりあげられたという次第です。
そうしたことを踏まえて、
これまで私がやってきたことをお話ししてみたいと思います。
自己紹介ぎみになりますが、
私が歩んできた道に沿って、
皆さんにいくつか話題を提供することにいたします。

戦中体験と歴史学への目覚め

今日の演題に「歴史の教訓に学ぶ」と
掲げさせていただきました。
私は常々大学の学生にも歴史講座の学習者にも、
「歴史を学ぶ」のではなく
「歴史に学ぶ」んだと、話して参りました。
歴史の教訓を明らかにし、
その教訓から学ぶことが大切なのであって、
「歴史を学ぶ」となると、
とかく何年に何があったと
暗記することだけになりかねません。
確かに「歴史は暗記物」と言われてきたし、
いろいろな事実を知っていると便利ではありますが、
歴史の学習というのは物知りになることではない。
歴史の事実をとおしてその教訓が何かを明らかにし、
その教訓に学び、
その教訓を現代に活かすことが大事なのだと
強調して参りました。
そのようなことを考えるに至った筋道をお聞きいただきます。

私は1928年、昭和3年に岐阜市で生まれました。
鵜飼いなどで有名な町です。
たまたま祖母が亡くなったので、
母が私をおなかに抱えて岐阜に帰ったら
私が生まれてしまった。
間もなく東京に戻って、
本所区(現・墨田区)の両国で育ちました。
父の妹つまり叔母が相撲の高砂部屋のおかみさんだったので、
高砂部屋と背中合わせの家で暮らしました。
中学校に入ったのが1941年・昭和16年、
その年の12月に日本は太平洋戦争に突入して、
戦争が日中戦争から太平洋戦争へ、
中国大陸から東南アジア・太平洋方面にまで広がりました。
そんなわけで私の小学校と中学校の時代は、
アジア太平洋戦争の真っ只中でありました。
中学校は現在の都立墨田川高校、
当時の府立第七中学校であります。
人並みに軍事教練を受けましたし、
身体を鍛えなければいけないということで
しょっちゅうマラソンをさせられました。
学校は隅田川の白鬚橋のすぐそばです。
隅田川をはさんで白鬚橋と言問橋をぐるっと回る道が
格好のマラソンコースになりました。
時には京成電車に乗って、
寅さんで有名な柴又の先の金町まで行き、
そこからできたばかりの水戸街道を学校まで走って戻る。
毎月必ず走らされました。
いわゆる勤労奉仕にもたびたび行きました。
そして、1944年、昭和19年6月の初めに中間考査があり、
それで学校の授業は打ち切りになって、
6月の下旬からは
京成電車の押上駅近くの
大日本兵器柳島工場に勤労動員に行かされました。
海軍機の機銃弾の弾体作りが主な仕事でした。
行ったすぐには昼間の作業だけでしたけれども、
9月からは昼夜2交代制に変わりました。
夜勤というのは健康な人でも大変なわけですが、
あまり丈夫でなかった私は、
まもなく微熱が出るようになりました。
工場の医者に診て貰ったら、
肺浸潤と診断されましたが、
医者がくれた薬はエビオスの錠剤
つまり消化剤でありました。
それから、翌年の3月に卒業させられました。
4年で中学を卒業させられたのは、
私たちの世代だけかもしれません。
5年生と一緒に卒業式に出席いたしました。
それで上級学校に進めるのかと思ったら、
指示があるまで、
卒業した中学校で学徒勤労動員に従事するようにということで、
今度は5月1日に上野駅に集合して、
横浜経由、神奈川県の瀬谷というところへ行きました。
大日本兵器の柳島工場は3月10日の空襲で
焼けてしまったものですから、
瀬谷に急遽作ったバラックのような工場で
6月の末まで働いて、
7月の1日に埼玉県の旧制浦和高等学校に入学しました。
ところで、先ほどの3月10日ですが、
1945年、昭和20年3月10日東京下町の大空襲で、
私の家も丸焼けにされました。
当時父は交通事故に遭って、
下半身をギブスで固めたまま家で療養していました。
私の家にも焼夷弾が落ちて、
母がお父さんを出そうと言いましたが、
布団に寝ている大の男は、
なかなか持ち上げられません。
ずるずる引きずって広い通りまで出たら、
向かい側の家に担架が立てかけてあったので、
「お借りしますよ!」と失敬して、
父を担架に乗せました。
やっと少し運びやすくなったので、
火の無いところへ、火の無いところへと移しては、
私が家にとって返して
避難用の風呂敷包みをいくつか持ち出しました。
このように私は、
アジア太平洋戦争中に
小学校と中学校の学校教育を受けたものですから、
戦争の時代のことをいくらかは知っております。
瀬谷の工場で働いている時に、
徴用できていたおじさんが一緒に作業をやりながら、
小さな声で、
「おい、日本はもう負けるぞ。
お前ら、勉強しろよ」。
そういう 話をしたことがあります。
このおじさんは、とんでもないことを言う人だ
と思いましたが、
そのおじさんの言ったことは
間もなく本当になり、
日本は降伏しました。
戦争中の学校教育を受けたわけですから、
教育勅語が説く国体を信じて疑いませんでした。
また、この戦争は日本がアジアを解放する正義の戦争だ、
聖戦だと教えられて、そうだと信じておりました。
ですから一生懸命働いて努力することが
当然の学生の務めだと、
そんなふうに思っておりました。
けれども、日本は神の国だから負けるはずがないと思っていたのに、
その神の国が負けたことは大変なショックでありました。
そうしてさらに、日本の戦後の改革、
いわゆる民主化の中で、
戦争中に学校で教えられたことが本当ではない、
嘘だったということになり、
国体観念も揺らぎました。
また日本がアジアを解放してやる戦争だと
教えられたけれども、
実は日本がアメリカやイギリスに取って代わろうとした
侵略戦争だったということも次第に見えて参りました。
戦争中に嘘を教えられ、
それを正しいと信じ込まされていたことに
気が付いたわけです。
そこで私は、
いったい誰が私に嘘を実しやかに教えたのか、
それに敵討ちをしたいと思うようになりました。
そしてあの時代、
日本はなぜ無謀な侵略戦争をやってしまったのか、
どうして平和を守ることができなかったのか、
そういう疑問を抱きました。
ちょうど中学校から高等学校へ、そして大学へ、
敗戦後の改革の時代に大学への道を進む年齢になっていたことが、
今から思えば幸せだったかなあと思います。
私は、その疑問について考えるには歴史の勉強をすること、
特に明治維新以後の近代の歴史について
勉強することが必要だと考えて、
大学は文学部の史学科を選びました。

日本近代史を戦争と平和の観点から

日本近代の歴史は何事についても
戦争と平和という観点で考えることが必要であります。
政治や経済、文化・教育はもちろんのこと、
国民生活の一つ一つに至るまで、
それぞれがどのように戦争に繋がっていったのか、
どうして平和を守ることには繋がらなかったのか、
そんな観点で検討していかないと、
日本近代の歴史の理解と認識は中途半端になってしまいます。
さらに近代の日本は、
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦
そして満州事変に始まるアジア太平洋戦争と、
ほぼ10年おきぐらいに大きな戦争を繰り返しております。
それぞれの戦争の時代をよく見ますと、
いつの戦争の時代も3つほどのことが目に付きます。
まず一つ目は、
戦争の時代はいつも国民の生活が苦しくなるということです。
二つ目は、戦争は国民の自由を抑えつけるということです。
三つ目は戦争は国民の大切な生命を奪うということです。
近代の日本の国が繰り返してきた戦争は、
国民の生活を苦しくし、
自由を抑え、国民の生命を奪ってきた。
これが戦争の実態でありました。
この3点はどれもが基本的人権に関わることであります。
しかし私が受けた学校教育では、
国民(臣民)に人権があるということを
教えられたことがありません。
教育勅語の「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」、
生命を捧げることが国民の務めと教えられましたけれど、
我々人間には生まれながらに人間としての権利があるんだ
ということは教えられた記憶がありません。
私の両親は二人とも明治生まれの人ですけれど、
権利という言葉は知っていたかもしれませんが、
人権、人間の権利という言葉は
たぶん知らなかっただろうと思います。
私が幼かった頃、
母はよく「我が身をつねって人の痛さを知れ」
ということを申しておりました。
私は、自分で手の甲をつねってみても
何のことだかわかりません。
成長してから少しわかってきたことは、
人権などという言葉も意味も知らなかった母なんですが、
人間は相手の身になって考える、
相手の立場に立って考えることが大切なんだということを、
幼い私に教え諭そうとしていたんではないかと思います。
戦後に歴史の勉強をするようになって、
私は基本的人権という言葉を知りました。
その意味の大事さを
今ではいくらかはわかってきたつもりでおりますが、
日常生活の中でさまざまな人と接する機会に、
私が言ったことやったことによって
相手が傷ついてしまった、
相手の人権を侵してしまった、
それなのにその場では気が付けないでいることがあります。
家に帰ってから悪いことをしてしまったなあ
と反省はするんですけれど、
その場では気が付けないでいる。
あるいは、私が笑いものにされている、
侮辱されている、にも拘わらず、
冗談でも言われているように錯覚して、
自分も笑ってその場をすませてしまう。
家に帰ってからそのことを思い出してみれば、
あれは明らかに私が侮辱されたんだ、
差別されたんだと気が付いて、
口惜しい思いをすることが無いわけではありません。
家に帰ってから気が付いたんでは
もう後の祭りでありまして、
その場その場で、
どういうことが人権に関わることなのか、
どういうことが差別したことになるのか、
差別されたことになるのか、
気が付かずにいることを、
時折反省させられております。

基本的人権の思想

基本的人権について私がよく紹介する史料は、
アメリカ合衆国の独立宣言の一節です。
「われわれは、自明の真理として、
すべての人は平等に造られ、
造物主によって、
一定の奪うことを許されない天賦の権利を付与され、
そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」。
赤ちゃんが生まれた時に、
この赤ちゃんは賎しい、
あの赤ちゃんは貴いなどということは
絶対にあってはならない。
そして私たち人間はこの世に生まれた時に、
誰もが同じように一定の権利を持っている。
生命を大事にして生きる権利、
良心に基づいて自由に生きる権利を持っている。
これは目で読み耳で聞けば
誰でもそうだと思って下さるでしょうが、
毎日の忙しい仕事の中で、
良心に基づいて自由に生きることはかなり勇気のいること、
なかなか難しいことであります。
そして三つ目に幸せを求めて生きる権利を持っている。
こうした生まれながらの平等と生命・自由・幸福追求の権利は、
誰かに与えられたというものではなく、
人がこの世に生を亨けた時に
誰もが持っている大事なもの、尊いものです。
従って、AさんがBさんの生まれながらの平等と権利を
抑えつけることは許されない、
奪うことは許されない、
それほどに大切なものである。
アメリカの独立宣言の一節には
そうした趣旨のことが書かれています。
この人権思想は、その後の人類の歴史の中で、
フランスの人権宣言をはじめ、次々と受け継がれて、
今日の日本国憲法あるいは世界人権宣言に至っていると思います。
そんなふうに考えてみますと、
近代の日本の国が繰り返した戦争は、
国民の生活を苦しくし、
国民の自由を抑えつけ、
国民の生命を奪ってきた、
まさに戦争ほど国民の人権を蹂躙するものはない
と思うようになりました。
私は日本近代の歴史を
戦争と平和という観点で見てきたわけですけれど、
それでは日本の近代社会、近代国家の中で、
国民の基本的人権はどのように扱われてきたんだろうか、
もし人権が軽んじられ、損なわれていることがあれば、
誰がどのような考え方で国民の人権を守るために
どのような努力をして下さったんだろうか、
そういう観点で日本近代の歴史を見直しするようになりました。
そうしてみますと、
日本の近代国家は大日本帝国憲法が
国民の基本的人権を軽んずるような内容で成り立っている、
いつでも人権を抑えつけることができる仕組みになっている。
しかも資本主義経済の中で貧富の差、
貧困に基づく人権侵害が社会の中にたくさん存在した。
さらに、障害者・女性・子供・被差別部落・
外国人・高齢者・アイヌ、
そして最近ではHIV・ハンセン病、
さらには思想・信条に関わる差別、そういったことが
日本の近代社会の中にたくさん存在しました。
現在の日本社会の中にもさまざまな差別が存在している。
この最初の5つは、
毎年12月に取り組まれる
人権週間に際しての標語でありますけれども、
1948年の世界人権宣言を記念しての人権週間の行事ですから、
もう今年は50回を越えています。
日本国憲法の下で人権情況が大きく改善されてきたことは
確かでありますが、
それでもこのような標語が掲げられるということは、
障害者の人権が尊重されているとはまだまだ言い難い、
女性の人権が守られているとは言い難い、
いわゆる部落差別がもう無くなったとは言い難い。
現実にそういう実態があるから、
人権週間の行事を続けて、
そのような人々の人権を大切にしよう、
差別を無くそうという標語が掲げられるんだと思うのです。
しかし基本的人権という観点から
日本近代の歴史の見直しをするといっても、
私が一人でこれらの人権問題のすべてを
勉強するわけにもいきませんので、
まず被差別部落の問題を中心にやってみようと
思うようになりました。

植木徹之助との出会い

それについては、植木徹之助との出会いが重要でありました。
ここに徹之助の息子の植木等の名前で書いた
「父に学ぶ」という文章があります。
お気付きの方もいるかと思いますが、
「スーダラ節」を歌った植木等と
その父親のことであります。
この「父に学ぶ」は、
前から3分の2位までは等の思い出に関わるくだりで、
後ろの3分の1は、
私の徹之助に対する思いと等の思いを重ねて私流に書きました。
この植木等の思い出の中にもあるように、
植木徹之助は若い頃には、
御木本幸吉の貴金属工場の彫金職人でありましたが、
その頃に、キリスト教に入信しました。
というのは、
御木本幸吉の弟の齋藤信吉という工場長が
熱心なキリスト教徒だったものですから、
自分もキリスト教の話を従業員にして聞かせる、
また外部からキリスト教の牧師や学者を招いて話してもらう
ということをやりました。
第一次世界大戦直後のことです。
その結果一挙に30数人が入信して、
東京労働教会というユニークな
職場のキリスト者の団体が作られました。
植木もその時に入信して、
「人間は神の子としてみな平等だ」
という信念を抱きました。
ところが、招かれて来た牧師の一人が、
沖縄出身の牧師ですけれども、
「君たちはあの世の幸せばかりでなく、
この世の幸せを得られるように努力しなければいけない。
そのためには現実をしっかり見つめたまえ」、
そういう話をしました。
植木が現実をしっかり見つめたかどうか知りませんが、
現実の社会にはあまりにも人間不平等のことがありすぎた。
これはおかしい、そう思ったところから社会の矛盾に気が付き、
社会問題に関心を寄せ、
社会運動にも顔を出す、
そういう方向へ進んでいきました。
ところが、関東大震災で御木本の工場がつぶれた後、
植木のように社会問題に関心を持った従業員が首を切られてしまいました。
それに肺結核を患ったこともあって、
植木は妻の実家のある三重県度会郡小俣町、
伊勢市の北側に宮川という大きな川が流れていますが、
その宮川の北側に小俣という宿場町があります。
そこの西光寺、浄土真宗大谷派のお寺が
植木徹之助の妻いさほの実家であります。
植木徹之助が肺結核を患って、
その妻の実家の西光寺で療養している頃に、
妻の父親である住職小幡徳月が娘婿の植木に、
「僧侶にならないか」と勧めました。
浄土真宗の祖である親鸞の人となり、
その思想と生き方について、
植木に語って聞かせました。
親鸞の思想は教科書には
「悪人正機」という言葉で要約されていますが、
これは「悪人もまさしく人なり」というように
理解するのだそうです。
親鸞の有名な言葉の中に
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
というのがあります。
親鸞の言葉を集めた『歎異抄』の中の有名なくだりです。
植木徹之助は親鸞思想を私にこう説明しました。
「善人ですら極楽往生できるんだから、
悪人はなおさら極楽往生できるんだよ」。
「そうですか」と答えましたけれど、
考えてみれば変な話ですよね。
私の名前はたまたま親が善二郎と付けてくれましたので、
多分私は極楽へいけるだろうと期待しておりますが、
善人は極楽へ、悪人は地獄へと選別されたのでは困ります。
地獄に落とされそうな悪人ですらも、
南無阿弥陀仏と仏様にお願いすれば、
「よしよしお前も極楽へ行きなさい」と
極楽への扉を開けてくれるところに仏の慈悲がある。
植木徹之助は岳父の住職の話を聞きながら、
「なんだ、これは仏から見た人間平等の思想じゃないか、
キリスト教も仏教もさして変わりがないな」と、
その辺がちょっといい加減なのですけれど、
名古屋の本願寺別院で修業して、
浄土真宗大谷派の僧侶になりました。
1929年、昭和4年のことです。

植木はしばらく西光寺で手伝っていましたが、
やがてお寺が二つ空いた。
一つは滋賀県の檀家が裕福な寺。
だからお寺さんは生活の不安が無い。
もう一つは三重県の山奥の寺、
檀家の生活は苦しいらしいから、
お寺さんも大変かもしれない。
植木はためらわずに、山奥の寺を選びました。
檀家が裕福だったら何も俺が行く必要はない、
お布施も出せないほどの苦しい生活を送っている檀家の人たちが、
この世の幸せを得られるように努力するのが僧侶の仕事だ。
僧侶の仕事は葬儀屋の手伝いをすることではない。
こういう生き方考え方が植木流であります。
それで山奥の寺に4〜5年はいたでしょうか。
そのうち1935年、昭和10年に
現在の伊勢市の朝熊町、
伊勢市から鳥羽市へ抜けるところに
朝熊ヶ岳という山が聳えております。
その北側の麓に昔の朝熊村がある。
そこは川を挟んで北と南とに分かれていて、
北の河原の部分がいわゆる被差別部落です。
その朝熊の北の部落の人たちが山奥の寺を訪ねて来て、
「部落の寺が改修されたけれども、
住職は数年前に亡くなって今はいない、
ぜひうちの部落の寺に来て下さい」。
植木は二つ返事で一家をあげて
1935年、昭和10年の5月、
朝熊部落に移住しました。
そしてこの朝熊部落が抱えていた差別問題を取り上げた
差別撤廃の運動に闘争委員、指導者の一人として奔走しております。
また彼は宗教人として常々、
戦争は集団殺人だ、
殺し合いだと説いてはばかりませんでした。
1937年、昭和12年7月7日、
廬溝橋事件をきっかけとして日中戦争が全面化しますと、
朝熊部落の青年たちにも召集令状がきます。
出征兵士がお寺に挨拶に参りますと、
「君もとうとう集団殺人の片棒を担がされることになったか。
中国兵も人間であることを忘れるなよ。
君は中国へ行っても
相手に当たらないように鉄砲を撃ちなさい。
戦争だから向こうからも弾丸が飛んでくる。
空鉄砲を撃ったら伏せなさい。」
「中国兵を殺すな、君も死ぬな。
必ず生きて帰ってきなさい」。
これが出征兵士に贈るはなむけの言葉でありました。
戦争の時代をご存知の方はこれがいかに変わった言い方か、
いかに勇気の要る発言かお判りいただけると思います。
私も子供の頃に近所の出征するおじさん、お兄さんを、
両国橋の袂まで旗を振って見送りました。
町内会長や在郷軍人会の分会長が、
「粉骨砕身、お国のためにご奉公を……」
などと励ますのが当たり前の時代に、
「中国兵を殺すな、君も死ぬな、
必ず生きて帰ってきなさい」、
こんなことを言う人はよほど変わった人間ですよね。

部落差別問題を自らの課題に

挙国一致が叫ばれた戦争の時代に、
こんなことを考え、こんなことをやった人がいたことは、
私には驚きでありました。
でも、その話の中に出てくる部落差別問題は、
私は東京育ちの者ですから
全然関心の持ちようがありません。
島崎藤村の「破戒」という小説はすでに読んでいましたが、
あれは長野県の明治期に生きていた部落差別の話、
それと似たような差別が
最近の戦争の時代の三重県でもあったんだなとびっくりしました。
私が部落差別問題を自らの課題にするのは、
それからまだ13年も後です。
植木等の「スーダラ節」は1961年の8月20日付けで
ドーナツ版のレコードが売り出されていますが、
ちょうどその秋に、私はようやく植木徹之助に、
部落差別問題をとおして日本の近代の歴史を見直したい、
だからもう一度あの話をして欲しい、と頼みました。
ですから植木の在住した寺のある朝熊部落の差別問題と
差別撤廃の運動について調査するのが、
私の最初の仕事になりました。
でも、基本的人権の観点から日本近代の歴史を見ていくと、
部落差別問題だけでなく、
日本の近代社会の中で
国民全体の基本的人権が軽んじられていたこと、
部分的には蔑ろにされていたこと、
そのことに国民の多くは批判できなかった情況が見えてきました。
それは多分、私もそうでありましたけれど、
教育勅語に基づく学校教育が
そのような国民を育ててきたと思います。
基本的人権が軽んじられ、蔑ろろにされながら、
国民の多くはそのことを批判できなかった。
このような人権情況が、
日本の国に他国の主権を侵し、
よその国の人々の人権を踏みにじる
侵略戦争への道を歩ませることになった。
国民の多くは自分に対する人権軽視・無視に
疑問も批判も持てないわけですから、
自分たちがよその国民の人権を踏みにじるような
侵略戦争をやっていても、
悪いことをやっていると気が付くはずがありません。
そういう意味で、
人権無視、人権軽視が近代日本の戦争への道に通じていった。
従って、日本の国が戦争への道に進むことを阻止するためには、
国民一人一人の人権意識を確かなものにしていく、
社会の中で人権尊重を確かなものにしていくことが、
平和を守る重要な土台になると、
そんなふうに私は思っております。
これは私がささやかな日本近代の歴史の勉強から
学び取った貴重な歴史の教訓の一つであります。

忘れられない先人とその言葉

私は歴史の勉強をする中で、
多くの先輩たちの学問とその言葉から
いろいろと啓発されてきました。
その言葉のいくつかをあげてみます。
私が学生の頃に、
羽仁五郎さんが『歴史』という小冊子を
岩波書店から出されました。
その中で私が感銘を受けたのは、
「歴史とは生き方である、
歴史学とは生き方の理論である」という言葉でした。
歴史の学習の目的はたんに物知りになることではなく、
歴史の教訓に学んで現代に生きることにあります。
現代社会の中でいかに生きるか、
より良く生きる、その生き方を考えるために、
歴史の勉強が大切なんです。
私は大学を卒業してから、
日本近代史研究会に加えていただきました。
羽仁五郎さんのライバルとも言える
服部之總という近代史家がいましたが、
服部さんを中心に若い研究者たちが集まって、
「画報近代百年史」等々の歴史の画報を編集しました。
その時、小西四郎さん、遠山茂樹さん、松島栄一さん、
それから吉田常吉さん、
当時東大の史料編纂所に勤務していた近代史の研究者が、
服部さんを囲んで日本近代史研究会を作ったのです。
そして実際に画報を編集する仕事を進める者として、
藤井松一さん、青村真明さんがいて、
その末席に私も加えていただいたわけです。

私は歴史の画報を編集しながら、
服部さんたちから歴史と歴史学についての指導を受けました。
服部さんは、私たちが画報の解説文を書きますと、
「揚げ足をとられるような文章を書くな」、
「自分の思いこみだけの文章を書くな」、
「事実を確かめて揚げ足をとられないような文章を書け」と言い、
たびたび書き直しを命じられました。
私たち若者を戒めて、
服部さんは「歴史の事実をありのままに大事にせよ、
良いことも悪いこともあるのが歴史の現実なんだ、
その現実をありのままに尊重せよ」
と繰り返し言われました。
それだけでなく、
「良いことも悪いことも、
好きなことも反発することもある、
その現実を貫く歴史の筋道をきちんと読みとれ」、
「その筋道を読みとるためには
理論が必要だ、理論の勉強をしろ」、
「理論の鉋を研げ、
理論の鉋が錆びていたのでは歴史の腑分けは難しい、
解剖するのが難しい、
未来を見通すことも難しくなる」、
そういう指導を服部さんから受けました。
さらに服部さんは、
「具体的事実の中にある全体を見ろ」
ということも強調されました。
たとえば個人の伝記とか地域の歴史は
いわば微視の歴史ですが、
それを貫く日本全体の、
世界全体の歴史を読みとるように努力せよ、
それが巨視の歴史である、
こういうことも仰有いました。
逆に言えば、全体の歴史の中にきちんと位置づけて、
個々の歴史を認識せよということでした。
そのお蔭でしょうか、
私は先に述べた朝熊部落の差別撤廃運動が
当時、戦争に反対した三重県の
人民戦線運動の中核になっていた事実を知って、
そのレポートを書いた時には、
当時スペインのフランコ政権と戦っていた人民戦線軍、
アメリカのヘミングウエイ、
日本の小松清なども参加したファシズム反対の
人民戦線運動を頭に思い浮かべながら、
あるいは中国の抗日民族統一戦線を思い浮かべながら、
朝熊部落の人たちの差別撤廃運動を書き進めていきました。

そして部落差別問題の勉強をやるようになってからは、
水平社宣言です。
1922年、大正11年3月3日の全国水平社の創立大会で、
水平社宣言が朗読されます。
これを書いた中心は西光萬吉、
奈良県の西光寺という浄土真宗本願寺派のお寺の長男です。
その水平社宣言の中に
「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」
というくだりがあります。
これを読んだ時には
理解しにくくてショックを受けました。
いわゆる部落出身者であることから
陰湿な差別を受けてきたんではないか、
そのような差別を受ける境遇にいる部落出身者であることが、
どうして誇り得ることになるのか、わかりにくい。
私は、この一句を考え、理解を深めていくことの中に、
部落差別問題について、
さらにはいろいろな人権問題について
理解を深める鍵が潜んでいるような気がします。
部落差別問題に限りませんが、
たとえば、国際障害者年の年のことです。
障害児を持つ親たちが障害児のための施設をつくる運動を進めて、
それが実現しました。
そのお祝いの会で、
テレビ局がマイクを一人のお父さんに向けました。
「お父さん、おめでとうございます。
今のご感想は?」。
私は、「苦労しましたよ」という答えが
返ってくるのかと思いましたら、
「私は障害のある子供を持ったことによって、
人様の見えないものが見えるようになりました」。
愕然としました。
とたんに思い出したのが、
「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」のくだりでした。
その西光萬吉は別のところで、
「歴史は自由への過程」ということを書いています。
人権問題・部落差別問題を扱っておりますと、
差別がいかに厳しかったか、
その結果として、
部落の人たちの生活環境がいかに劣悪であったか、
生活がいかに苦しかったかということを、
とかく強調しがちになります。
けれども、そういう事実を明らかにするだけのために、
歴史の勉強をやるんではないのです。
劣悪な苦しい境遇に追い込まれた人が
たくさんいたことは事実でありますが、
そういう境遇の中でも部落の人たちは、
さまざまの努力、さまざまな活動を通じて
差別の撤廃、差別からの解放、
あるいは貧乏からの解放を求めて、
言い換えれば人間としての自由と平等を求めて、
一生懸命に努力し戦っていました。
その人間らしさ、人間の誇りを明らかにし、
その人間の誇りに学ぶことが、
部落差別問題または人権問題に関わる勉強の目的なんだと、
そのように私はこれを読みとりました。
日本国憲法の第97条に
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は
人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、
これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、
現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」
とあります。
西光萬吉はそれより25年も前に
「歴史は自由への過程」であると喝破しているのであります。
 このような先人たちに導かれて、
私は歴史の勉強をやってきました。
ですから私の歴史の勉強は、
戦争と平和の観点から、
あるいは人権と部落差別問題に関わる観点からのものが多くなりました。

市民の歴史学習の講師として

1964年、昭和39年、
ちょうど東京オリンピックのあった年に、
私は当時国分寺町の公民館で開いた
日本歴史講座の近代の部分の講師を初めて依頼されました。
その評判が良かったのか
翌年、1965年度には同じ公民館で、
日本近代史講座全6回の講師を務めました。
以来、主に三多摩地域で日本近代史講座の講師を
数多く務めてきました。
講師の私は、戦争と平和の観点から、
そして人権と部落差別問題の観点から、
日本近代の歴史の講義を繰り返したのですが、
そのうちに何か変だなと感じるようになりました。
講義が終わると、学習者から、
良い話をありがとうございましたとお礼を言われるんですけれど、
私が訴えたいことがどこまで受け止めて貰えたのか、
どうも不安になったのです。
なぜかというと、
歴史の学習はただ講義を聴けば学習になるんではなくて、
自分の頭で考えて認識することが必要です。
公民館の講座に来る人はみな学習意欲のある人たちですが、
私の講義を聴いただけで何か勉強したかのように
錯覚しているのではないかと思われました。
そのことに気付いてからは、
学習者の皆さんを驚かすようなことを始めました。
まず「なぜ何のために公民館講座に参加したのか」、
「なぜ何のために歴史の勉強をする気になったのか」と、
作文を書かせました。
そして次には、こういう問題を出しました。
黒板に書いたのですが、
「太平洋戦争に敗れて日本は無条件降伏をした」。
この文章を素直に読んで、○か×か?か答えて下さい。
今日の参加者の皆さんは、いかがでしょうか。
日本は、ベルリン郊外のポツダムで
1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」を受諾して
降伏したのでした。
そのポツダム宣言は
連合国が日本に提示した戦争を終結する条件でしたね。
その条件を受け入れて日本は降伏したわけですから、
条件付きだったのです。
これを「無条件降伏」と理解したのでは、
国民の歴史認識を誤らせることになりかねないと
思うんですけれど、どうでしょうか。
日本は結局、ポツダム宣言をそのまま受諾しました。
無条件受諾です。
それを無条件といえば、
条件付き無条件降伏とでも言ったらよろしいでしょうか。
けれどもポツダム宣言は戦争終結の条件ですから、
明らかに条件付き降伏なのです。
この辺は敗戦の事実認識だけでなく、
敗戦後の日本の歴史の認識にも関係していく問題であります。
もう一つの文章は、
「太平洋戦争は日本とアメリカとの戦争であった」です。
これについても○、×、?の意見を尋ねました。
これも、アメリカだけとの戦争ではなかったことは
多くの学習者がご存知です。
それでは日本はどことどこの国と戦争をしたのか?と聞くと、
イギリス、オランダ、ソ連……、
中国は重要なのになかなか出てこなかったですね。
まあ、この辺で止まってしまいます。
日本と戦争状態にあった国は何か国ですか?という問題なのですが、
皆さんは10か国もいかないんですね。
1951年、昭和26年9月のサンフランシスコ講和会議、
日本と戦争状態にあった国々が
戦争にピリオドをうつために集まった場です。
そこに何か国が集まったのでしょうか?
日本は別として51か国です。
そのうちのソ連、ポーランドとチェコスロバキアが
平和条約の内容に反対したので、
結局は48か国が調印しました。
ところがこの講和会議には、
中国が招請されておりません。
私はアジア・太平洋戦争を理解する上で
日中戦争を中心に据えて考えないと、
あの戦争の本質はわからないと思います。
だとすれば中国が呼ばれていない講和会議はおかしなものです。
インドとビルマは招請されたが出席を拒否した。
それとユーゴスラビアも出席を拒否していたようです。
ですから、日本は55かの連合国側と戦争状態にあった。
東南アジアの国々を含むこれだけ多くの国と日本は戦争をした、
そして負けて降伏をしたんだということを
しっかり認識しておかないと、
日本国民のあの戦争に対する認識は
中途半端な歪んだものになってしまいます。
私たちは、日本が東南アジアの国々に降伏をしたという
アジア・太平洋戦争の歴史認識を、
どれだけ持っているでしょうか。
そして、日本の植民地であった、台湾、朝鮮の問題もあります。
そんなふうに私は歴史講座の中で
学習者の皆さんにいろいろ質問を発しては困らせ、
そして理解し納得して貰えるように学習を進めてきました。

戦争と平和を考える夏季市民講座

武蔵野市で私が講師を7〜8年続けていた
自主学習グループの学習者の一人が、
1974年、昭和49年に武蔵野市教育委員会が開いた
「働くことと女の歴史」という新しい講座の講師に、
私を紹介してくれました。
この時私は、学習者に
「母」というテーマの作文を書く課題を出しました。
そして書いた作文の内容を、
参加者の全員で分担整理して貰いました。
整理してみたら、共通して皆さんが書いていたことは、
戦争の時代にお母さんたちがどんなことをしていたか、
戦争中のお母さんの生活と行動がいっぱい出てきたわけです。
そうしたら学習者は、
私たちもあの戦争がどういうものであったのか
勉強しなければいけないという要望になった。
そこで生まれたのが、
やはり市教委主催の戦争と平和を考える夏季市民講座でありました。
1974年から1983年までまるまる10年間、
講座が続きました。
毎年8月15日をはさんで1週間の学習でした。
これが終わらないと
私の夏休みが始まらないような感じになりました。
この市民講座で、
いつものように学習者に作文を書いて貰いました。
あるいは発言を求めました。
その二つを紹介しますが、
皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。
「私は戦争に反対だが、
国が戦争を決めたら、
武器を執って戦うのは国民の務めではないでしょうか」。
この発言をされた方は、
戦争中ある学園の校長を務めていた、
私より一回り年上の方です。
一高生だった時の同窓生に、
ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実もいたそうです。
その方が立ち上がって発言してくれた質問です。
どうでしょうか。
戦争の時代になってからでは、
戦争反対といくら言ってももう遅いんですね。
ですから、何が戦争につながるのか、
平和につながるのか、
早い段階で戦争と平和の筋道を見きわめなければだめです。
病気と医療で言われるように、
早期発見・早期治療が必要なんです。
もう一つは、若いお母さんの作文です。
「私が生まれた時、父は既に戦死していました」。
「父の戦死は無駄死にだったのかどうか、
戦争を体験している方々に教えていただきたい」。
アジア・太平洋戦争では約三百万人といわれる戦没者が
「護国の英霊」として靖国神社に祀られています。
この戦没者は「無駄死に」だったのでしょうか。
出席している学習者の中に、
調布飛行場で整備兵をしていて
特攻機を見送ったという方がいましたが、
「無駄死になどと軽々しく言うべきじゃない」と
強い口調で仰有いました。
家族や仲間を亡くされた方は、
「無駄死に」だの「犬死に」などと
簡単に言えるものじゃないですね。
言ってほしくないですよね。
すぐには結論は出せませんでしたけれども、
あの戦争の性格や意味とも関連させて
考え続けなければいけない課題だと思いました。

市民講座で「中島飛行機」の調査へ

そのうちにある学習者が、
講座の会場である福祉会館のこの場所に以前、
慰霊碑が建っていたが、
福祉会館ができたらそれが消えてしまったという話をしました。
それは空襲で亡くなった方の慰霊碑で、
ここには中島飛行機武蔵製作所という大きな軍需工場があって、
なんども空襲を受けたという話でした。
それを一つ調べようじゃないか
という提案が学習者の中から出てきました。
そこで夏季市民講座記録の会という名称の有志のグループを作って、
まず慰霊碑を探しました。
その結果、慰霊碑は
保谷市の東伏見稲荷神社に移されていることがわかりました。
犠牲者219名のお名前が刻まれていました。
慰霊碑を手がかりにいろいろ調べていくうちに、
中島飛行機の空襲では、
勤労動員で働いていたいくつかの学校の生徒が
何人も犠牲になったこともわかりました。
記録の会は普通の生活者である市民のグループですから、
それほどには専門的な調査はできませんでしたが、
会員たちは関係者からお話をうかがい、
あちこちの図書館やら知り合いから
いろいろな参考書をかき集めてきて、
みんなで分担してレポートを書きました。
市民講座の5年目と10年目とそれぞれに
『戦争と平和を考える』という2冊の報告書を作りました。
さらにたくさん集まった写真を整理して
「戦争と武蔵野市」と題するスライドも作り、
武蔵野市だけでなく、保谷市など近隣の公民館にも出かけて
大勢の市民に見ていただきました。
本日お集まりの皆さんは、
中島飛行機武蔵製作所と浅川地下壕との関係は
ご存知だと思いますので、
今日はくわしい説明は必要ないと思います。

中島飛行機─地下壕─在日朝鮮人

浅川の地下壕や松代の「大本営」地下壕では、
その掘削工事に多数の朝鮮人が使役されたことは知られています。
中島飛行機武蔵製作所においても、
地下道や防空壕として地下壕をたくさん掘っています。
その工事には朝鮮人労働者が
たくさん使役されているという話があるのですが、
必ずしも確かな資料が見つかっているわけではありません。
私は日本近代の歴史を勉強する中で、
アジアから見た近代日本という視点を強調してきました。
その観点を持っていないと、
アジアとの関わりにおける日本近代の歴史認識が、
歪んだものになってしまいます。
日中戦争の時期以降、
植民地の朝鮮半島に対して皇民化政策がとられています。
その皇民化政策を進める中で
いわゆる強制連行や従軍慰安婦の問題が生じているわけです。
在日朝鮮人の人口動向の表の中で、
内務省調査の居住人口を見ますと、
1939年、昭和14年に96万人、
それが敗戦の年1945年、昭和20年には
236万人にまで急増しています。
その過程では、朝鮮人労働力の動員について、
自由応募から官斡旋へ、さらに国民徴用令の適用と、
いろいろ政策の変遷がありますが、
しかしその頃、朝鮮総督府に勤務していた役人の思い出話を読むと、
動員政策の展開と同じ時期に併行して、
文字通りの強制連行を行なったということを認めています。
自由応募や官斡旋の渡航まで強制連行と言ってよろしいのか、
私は躊躇しておりますけれど、
文字通りの強制連行も少なからずあったことは
否定し難いだろうと思います。
現在、在日韓国人・朝鮮人の数は
だいたい65万人から70万人くらいであります。
これほど多くの韓国人・朝鮮人が日本に在住しているのはなぜか、
日本の国民としては疑問を持って考えるべき課題だろうと思います。

終わりに──ヴァイツゼッカー「荒れ野の40年」から

もう時間が無くなりました。
最後に一つだけ資料を紹介しておきたいと思います。
「荒れ野の四十年」という大演説です。
1985年5月8日に当時西ドイツの大統領だった
ヴァイツゼッカーが行なった演説です。
5月8日は、ドイツが第2次世界大戦で
無条件降伏をした敗戦記念日です。
演説の全文は岩波のブックレットに入っていますから、
ぜひ読んで下さい。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、
われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。
全員が過去からの帰結に関わり合っており、
過去に対する責任を負わされているのであります。
……問題は過去を克服することではありません。
さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、
起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし、過去に目を閉ざす者は
結局のところ現在にも盲目となります。
非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、
またそうした危険に陥りやすいのです」。
戦争体験の有る高齢の世代も
戦争体験の無い若い世代も、
過去に戦争があった事実と
その戦争がもたらした結果とを
引き受けなければなりません。
戦後に生まれた人は、
自分は戦争とは関係がない、
戦争責任とは関係がないと思っているかも知れませんが、
戦争がもたらした戦争後のことについては、
戦後生まれの人たちにも責任があります。
戦争責任は戦後責任の中に含まれているとすれば、
戦後責任をとおして
戦争責任にも関わりがあるということになると思うんです。
そういう意味で、ヴァイツゼッカーは
戦争体験の有る世代も戦争体験の無い世代も、
共に戦争責任を負わなければならないと指摘しています。
過去に目を閉ざす者は現在も見えなくなる。
私たちはその指摘の課題を
しっかり受け止めたいと思います。

駆け足の話で聞き取りにくかったかも知れませんが、
「歴史の教訓に学ぶ」ということがどんなに大切であるか、
少しでも理解していただけたら嬉しく思います。
長時間のご静聴ありがとうございました。

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