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6、7 
近世の日朝国交交渉……拉致問題を想う
尹 達世

現在、日本では「拉致」問題が
注目を集めている。
拉致という行為は、
一言で言っていつ、いかなる場合でも
実に不法、不当なことで反論の余地はない。
ところが一部の同胞の間では
半世紀前の植民地統治時代の
強制連行を持ち出して
反論しているむきもあるが、
問題をいたずらに複雑にして
混乱させてはならない。
この件は目朝交渉が軌遺に乗った上で
日本に徹底的に反省を求め、
その賠償を要求すればよいことである。
そうでなければ、
今回の交渉は先へ進まないではないか。
今回は拉致問題に関連して歴史的に、
「拉致」というのは
どういう系譜を持っているのか、
また歴史から学ぶことはないかを考えてみた。
日朝の長い歴史の中で、
拉致、強制連行というのが
歴史的に顕著に見られるのは
中・近世と近代である。
近代では第2次世界大戦末期の
朝鮮半島からの強制連行であり、
これは再言するまでもなく、
よく知られているので、ここでは省く。
今回、振り返ってみようと思うのは
遠く中・近世、
すなわち「壬辰倭乱」前後の拉致である。

1 壬辰倭乱以前の拉致

日本では「応仁の乱」(1467年)以降、
内乱に内乱を重ね、
いわゆる戦国時代に入ったが、
秀吉が日本国内を平定すると、
次に彼は余勢を駆って
大陸の侵略を目論み、
対馬の宗氏を通じて
朝鮮の朝貢・服属を求めた。
当然、朝鮮は拒否したが、
宗氏は両者を欺きながらも、
ようやく朝鮮からの使節の来日を実現させた。
朝鮮侵略の2年前、1590年のことである。
宗氏は日本側の誠意の証しとして、
それまで対馬に拉致してきた
朝鮮人160名を送還した。
壬辰倭乱の前に拉致された朝鮮人が
なぜ何百、何千人もいるのかと
不思議に思われるかも知れないが、
これはいわゆる「倭寇」が
朝鮮から拉致してきた人々であった。
倭寇は既に13世紀
(朝鮮側での倭寇の初見は
『高麗史』によると、
高宗10〈1223〉年
「甲子ノ倭、金州二寇ス」とある)
から400年近く、断続的に、
ある時は継続的に行なわれたものであった。
倭寇は対馬をはじめ、
五島、北九州、西九州、
それに瀬戸内の日本人たちが、
朝鮮半島や中国大陸へ船団を組んで侵攻し、
食糧を略奪し、
人家を焼き払い、
人びとを殺戮するなど蛮行を働いたものだが、
また人間をも拉致している。
日本の統一政権の下で
行なわれたものではなかったが、
そういう拉致してきた人びとを、
当時の日朝交渉の力一ドとして
交渉の窓口となった対馬・宗氏は活用しており、
今回のケースと何と似ていることかと驚かされる。

2 日本国内での拉致

朝鮮使節の来日2年後の1592年、
豊臣秀吉は「唐入り」−大陸侵略を実行した。
いわゆる「壬辰倭乱」である。
この侵略ではそれまでの倭寇よりも
国家的な規模で行なわれたものだから、
当然にもっと大規模な拉致、
強制連行が全国的に行なわれた。
もっとも日本国内でも
戦いでは常に殺戮と略奪が行なわれ、
同時に拉致も行なわれていた。
当時、日本では
拉致という言葉は使われず、
古文書には「乱取り」、
あるいは「乱妨取り」と記されているのがそれだ。
江戸期以前、つまり戦国時代のサムライ、
雑兵たちは戦場で、
放火、食糧や牛馬の略奪、
それに人の生捕り、
「乱取り」に精を出していた。
武士道の美学なんてものはなかった。
そうして、乱取りした人間を
奴隷(召し使い)にしたり、
時期を待って
買い戻しに来る親戚・縁者に売っていたのである。
この延長線上において、
ポルトガルの奴隷商人に売る場合が
目に余るほど贈大したので、
秀吉は天正15(1587)年、
人身売買禁止令を出したほどである。
外国宣教師も布教に支障があるといって
自国の国王に人身売買の中止を訴え、
国王は秀吉の禁止令よりもずっと早く、
その禁止を商人に命じたが、
奴隷商人はそれを無視して行なっていた。
私たちがかつて学んだ歴史教科書では
秀吉の外国への人身売買禁止令だけが
強調されていたように記憶しているが、
国内でも人身売買は
日常茶飯事のごとく当然視されていた。

3 「壬辰倭乱」後の交渉

秀吉が惹き起こした「壬辰・丁酉倭乱」は、
これまで倭寇が行なった拉致より、
もっと大規模なものだったし、
国内の延長という意識があったので、
日本に拉致、強制連行された被虜人は
一説には数万人にも上ったという。
連行された者は多様で、
学者、技能者、女性、こども、
その他であり、
連行の目的もまた、売買、奴隷のほか、
技能者は産業振興のために用いられ、
多岐にわたった。
ところが、朝鮮から撤兵したあと、
1600年の関ヶ原の戦いにおいて
徳川家康が豊臣家に代わって
天下の実権を握ると、
朝鮮との国交修復を望むようになった。
先例通り、
対馬の宗氏を窓口にして講和交渉を始めた。
その経過を年表にすると次の通りである。

1598年 日本軍、朝鮮から撤退
1599年 対馬領主宗氏、和議交渉使派遺。
1600年 2月 宗氏、被虜人160名を送還し、
     和議交渉使再派遣。
     4月 宗氏、被虜人300名を送還して、
     和議を求める。
     9月 関ヶ原の戦い。朝鮮、被虜人を全て
     送還すれば交渉につくと回答。
1601年 宗氏、被虜人250名を送還して求和。
1602年 日本人14名が被虜人229名を
     連れて来るが、米を与えて返す。
1603年 江戸幕府開府。
    3月 宗氏、被虜人85名を送還して求和。
    6月 宗氏、被虜人100余名を送還して求和。
1604年2月 宗氏、求和。
    6月 朝鮮、僧維政を対馬に送り、
     対馬島民の交易を許可する。
1605年 徳川家康・維政会談。
     維政、被虜人3000余名を連れて帰国。
1606年 宗氏、家康の国書と犯稜人2名を送り、
     被虜人120 名を送還。
1607年 朝鮮、回答兼刷還使を派遣。国交修復。
     釜山に倭館再設置。
1609年 朝鮮と対馬、「已酉約定」締結。

上記の経過をみると、やはり、
拉致した人びと−被虜人を送還するというのが、
交渉再開のカードに使われている事実を
見ることができる。
朝鮮側が壬辰倭乱後、
すぐさま被虜人の送還に
注力していることは見逃せない。
日本政府が拉致された国民を
20数年間も看過していたのとは
大違いと言わざるをえない。
また、国交修復は当時、
北方の脅威に傭えるためとはいえ、
1598年に日本軍の朝鮮からの敗走後、
国交修復の1606年まで、
わずか8年というスピードぶりである。
一方、1945年の解放後、
日本と「南」との国交正常化、
「日韓条約」締結は1965年で、
20年という歳月を要し、
「北」との国交は57年を経過しても
なおなされていない。
江戸時代の方が時間の流れがゆったりし、
現在の方がスピード時代であることを考えれば、
これは逆じゃないかと驚くばかりである。
それではなぜ400年前は
それほどスビーディーに国交が修復されたのか。
1604年に対馬・宗氏の懇請で
壬辰倭乱でも義兵として戦った僧・維政が
朝廷の非公式使節として対馬に来島したとき、
宗氏はすぐさま家康に通報し、
家康はこの機会を逃さず、
維政に京都まで来てくれるよう懇請した。
そこで維攻は京都で家康と会談し、
家康が国交修復を要請すると、
維政は講和条件を提示したが、
家康は全面的にその条件を呑んだのだった。
つまり、朝鮮は
侵略に対する謝罪、
王陵を荒らした犯人の引渡し、
それに被虜人の送還を要求したのだった。
家康はこれらの要求を全て受け入れたようだ。
(ようだ、というのは、
日本側に謝罪した記録、
文書が確認できないからである)。
王陵を荒らした犯人は
対馬の別件での犯罪者を犯人に仕立て上げ、
朝鮮に送った。
朝鮮朝廷でも
それが真の犯人ではないことを知っていたが、
それを認め「政治決着」したのだった。
そして幕府は日本に連れ去られた被虜人たちを
積極的に送還させるように各領主に督促している。
すなわち、日本側は
3つの条件を全て履行したのである。
朝鮮側は被虜人の送還が
全て終えたわけではなかったが、
それに応えて1607年には
修交の証として使節を送つている。
これらの一連の条件を
日本側がスムースに実行できたのは、
幸い、徳川家康白身が
侵略戦争に直接加担していなかった、
つまり政権が代わり、
戦争の直接の当事者ではなかったからであろう。
侵略−拉致の当事者であれば、
簡単に謝罪と要求の履行が
スムースに行なわれなかったかも知れない。
翻って解放後をみたとき、
日韓会談もスムースには行かなかった。
交渉過程で、日本側の保守政治家が、
素直に「植民地統治」の非を認めず、
〈日本は朝鮮を植氏地統治したけども、
良いことをした。
もっと統治が長ければ、
朝鮮はもっと発展しただろう〉などの発言が
何度も飛び出し、
そのたびに交渉は頓挫した。
一方、「北」とは、
東西冷戦による日本側の敵視政策によって
交渉さえ持てなかった。
その間、「北」は
〈平跨における拉致〉という決定的な過ちを犯し、
日本国民、政府の信を失ってしまった。
この問題は封建主義の江戸時代と違って、
単に「国家主権」だけではなく、
近代的な「人権」意識の高まりがあることを
忘れてはならない。

4 交わりの精神−欺かず、争わず

 現在のところ、双方にはまったく、
信頼感が欠如してしまった。
一刻も早く、信頼回復に努めなけれぱならない。
4世紀前、秀吉の要請によって
1590年に来日した朝鮮使節の副使・金誠一は、
交渉の窓口となった対馬の接待役に
述べたということばがある。
それは「信とは万事の根幹たるものなれば、
足下においては隣国を欺かざること、
これ信というものであろう。
また義とは万事の宜をいうものなれば、
足下においては利のために動かざること、
これすなわち、義というものであろう」。
対馬は、自国が生き延びるために
一貫して秀吉を欺き、
また朝鮮をも欺きながら、
交渉を推進した。
それが露呈して朝鮮側の使節が叱り、
信義とは何ぞやと、諭しているのである。
国交交渉においては
信頼関係がなければだめだということを
説教しているわけである。
既に400年前において、
そのような精神が重要であることを述べている。
この姿勢は朝鮮側の使節だけが
言っているのではない。
江戸時代初期の国交修復から、
幕末までその友好関係は継続されたが、
まったくの平坦な道ぱかりではなかった。
中期にいたって日本の国学の高揚、
それによる日本の権威の樹立といった思想も高まり、
危機もあった。
そのようなとき、
朝鮮使節の接待役だった雨森芳州は、
両国の交わりについて
「互いに欺かず争わず、
信実を以って交わり侯を、
誠信とは申し侯」(『交隣提醒』)
ということばを残している。
つまり、その精神は誠信の交わり、
つまり、お互いに欺かず、
真実をもってやらなければならない
ということである。
現在の日朝交渉はどうであろうか。
4世紀前よりずっと後退していると思えてならない。

この論文は兵庫県尼崎市の兵庫朝鮮関係研究会の機関紙「兵朝研」第103号
(2003年1月号)より編集者の許可を得て転載したものです。

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